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横山講演録(8) わたしの生涯

2025年11月22日

数学者 岡潔思想研究会 横山 賢二

  1 はじめに

  2 幼少の頃

  3 高知で岡潔に出会う

  4 大学時代

  5 岡潔思想研究会の発足

  6 大野長一先生

  7 破れかぶれの実践

  8 父と母の思い出

  9 松澤信夫先生

  10 最近の活動

  11 生涯の反省

  1 はじめに

 この度、長年の悲願であった「岡潔講演録解説」横山賢二著がアマゾンから出版の運びとなり、その感慨に浸っている。これで当面の、また最終の目標は達成されたと思っている。というのも、人類の未来を拓く岡の晩年未発表の資料はいまだ一冊として出版されてないのだが、今回の出版は人が知らないだけで、その唯一のものだからである。インターネットは何れどうなるかわからないし、これを本として残しておくことは焦眉の急だと思っていたのである。そういうことで、この本がどういう経緯で出来ていったのか、私の人生を振り返ることによって記録に残しておきたいと思うのである。

  2 幼少の頃

 私は高知市の下町である北農人町で横山耕作、鶴子の長男として昭和26年(1951年)4月26日に生まれた。父は8人兄弟の長男であり、母は5人兄弟の長女である。父方は貧乏で、父が若い頃から国鉄マンとして家の柱となったのであるが、母方は高知市五台山のゆとりある農家で、母は父の誠実で堅実な性格に引かれて見合いで結婚したようである。

 しかし、その結婚生活は初めは持ち家もなく、母の証言では「借り家の六畳一間に箸と茶碗」からの出発で、母はよくぞ貧乏を覚悟のうえで父を選んだものと思うのである。それは岡のいう「貧しくも暖かい家庭」の見本のようなもので、「心の世界」から見た最高の結婚生活ではなかったかと私は思う。

 父は真面目で堅実一点張りの人間であった。家が貧乏であったため学歴はないが、小学校ではよく勉強ができ、私の恩師でもある内田八朗先生にはよくかわいがってもらったようである。その分、長男の私には当然のことながら高い学歴を期待し、小さい時から父なりの英才教育を施したのである。それで私は高知女子大付属幼稚園、新堀小学校、高知学芸中学、高校と一応の進学校に進んだのである。

 しかし、実は私の花は小学校時代であって、それまで割と平凡であったが、岡のいう小学3年の時に「フランダースの犬」という映画を教室で見て、初めて涙を流し「人の悲しみ」というものがわかったのをきっかけに、次第に勉強とスポーツに力がはいり、5年生頃はクラスのリーダー的存在となっていたのである。家では自分のふがいなさに頭を家の柱にガンガンとぶちつけ、教室では目の色を変えて勉強に取り組み、そして最後には自分よりはるかに体格の大きい、クラスのいじめっ子に体当たりで向かっていったのである。この体当たりは、今でも私の人生の最大の誇りである。

 母はきれいで職場のスーパーでは「美空ひばり」と呼ばれ、初めての男の子であるから、尚更よく私をかわいがってくれた。私が生まれてからは持ち家に住んだが、確か寝室の三畳とちゃぶ台のある二畳しかなく、私はその二畳で母の噛んでくれた干し魚を口移しで食べさせてもらい、食事が済むとその二畳で父のお馬さんに乗り笑いさざめいたことを今もハッキリと覚えている。これが私の幼少時の記念碑である。

 中学校では父が小学校でお世話になった内田八朗先生を慕って、進学校である高知学芸中、高に入学したのだが、成績では鳴かず飛ばずの状態が続き、小学校では理科系が好きだったものの、途中で数学がわからなくなったこともあり、大して目立たない平凡な学生生活であった。ただ、スポーツでは父の影響をうけテニスをしたのだが、もともと運動神経はよかったので目立つ存在ではあった。

  3 高知で岡潔に出会う

 高校では学業はますます差が開く一方であった。というのも、私は岡先生とは違って記憶力と集中力が弱く、それが学業が伸びない最大の原因であった。一つの例が、前日に徹夜して試験を受けたところ、かえって頭が朦朧としてしまい、酷い落第点をとったことがあり、担任に呼び出されたのである。もう一つは、定期試験が前日に迫ったのであるが、準備が全くできてなく登校拒否をおこし、四国山脈が見える山の畑で一日を過ごしたのである。翌日担任に「横山君、昨日はどうしたのかね」と詰問され、仕方なく「寝冷えになり、家で寝ていました」と答えたところ、翌日から私のあだ名が「寝冷え」となってしまったのである。

 ともかく大学受験を前にした高校で、学業ではよい思い出はない。しかし、高校卒業の直前に、私の人生の最大の転機が訪れたのである。それが岡潔先生の高知講演である。私の親友でいまは亡き浜田真孝君が、私を無理やりその講演会に引っ張って行ったのである。(なお、彼はのちに岡潔に憧れて京都産業大学に入学し、その講義を聞いたのである)一方、その講演を初めて聞いて、それまで平凡でうだつが上がらない私も、一挙に目覚めエンジンがかかったのである。

 

 何が一体どうわかったのか、今の私にはわからないが、岡先生の同じような体験をご紹介してそれに代えたい。これは「春風夏雨」の中にある岡先生が良寛の書「天上大風」を見たときの言葉である。

 私はそれを見ると、直ぐわかった。とっさで、何がどうわかったかわからないが、一切がわかってしまったのであろう。良寛の書がいわば真正の書であることを少しも疑わないようになったから。

 多分、私も同じような心境ではなかっただろうか。考えてみればその後50年、岡潔を志向して我ながら微動だにしていないのだから、それも頷けるのである。岡の講演を聞いた人は多いはずだが、こんなに心に強く刻まれた例は極く少ないのではないだろうか。それは一体どうしてだろう、私にもわからない。しかし、一つだけいえることは、「過去世の経験」が強く影響しているのではないか。そんな気がするのである。

 この運命的な講演は、岡先生にとっても同じであって、著書の中に随分この講演に関しての記述がある。ここで岡先生は長年信奉してきた仏教から、古神道(情の世界)に明確に移行したのである。その講演を聞いた私が50年後に、その古神道に移ってからの岡潔を世に広めることになるのだから、人生とは誠に不思議なものである。

  4 大学時代

 さて、私は岡潔に強く関心を持ちつつも、世間並みに大学を受験したのであるが、高望みをしたため二年浪人をし、ヘトヘトになって何とか早稲田大学文学部に入学した。しかし、その頃はまだ大学紛争の余波が残っており、文学部にはバリケードが要塞のごとく聳え立ち学問どころの騒ぎではなかった。特に酷いのはその授業であって、早稲田革マル派が教授を顎で使い、今から討論をすると授業に介入して来るのであった。

 私の母校の内田八朗先生は「学校とは勉強するところではない。人に勉強させて上げるところだ」が口癖であったから、このギャップに私は心底反発した。しかも、その頃は岡潔に熱中していたので、次第にそれに関係がない大学の授業からは遠ざかることになったのである。その代わり、テニスの同好会に入ったところ、和気あいあいの雰囲気もよく、私を慕ってくれる後輩もいたので自然と力もはいり、その運営にのめり込んでいったのである。そして父にはなかなか大学を辞めるとは言いづらくズルズルと3年間、大学では結局テニスばかりしていたのである。今から考えると父には誠に申し訳なかっと頭を下げるしかない。私が大学中退で高知へ帰ると、父と母は3日間寝込んでしまったのを今も憶えている。

 その高知へ帰る時、奈良に寄って岡先生と対面したのである。それは1973年初夏の候、私23歳の時である。その年はまた不思議な年であり、人類の滅亡は間違いなしと覚悟していた岡先生が、「待てよ、助かるかも知れない」と思い直した年でもある。そして翌年の1974年には「最早、人類自滅の危機は去った!!」と宣言するのである。

 大学時代に一つ私らしい出来事があるので言い添えると、渋谷駅前で街頭演説に行き当たったのである。何気なく聞いていると、アジアの子供達の悲惨な現状を悲痛な叫びで訴えているのである。それを聞いているうちに身につまされて、丁度2か月分の奨学金を受取ったばかりであったのだが、その全額(9万円)を募金箱に投げ入れたことがある。その後の生活がどうなったのか今は憶えていないが、相変わらず夜は居酒屋で後輩達の悩みを聞くことに変わりはなかったのである。

 もう一つ言い添えたいことがある。なぜそんなに東京でテニスばかりしていたかということであるが、私は高校の恩師、内田八朗先生の「教育に生きる」をよんで感激し、弟子入りを申し込んだくらいだから、岡先生の教育論も手伝って実践的教育に理想を燃やしていた。そこへテニスクラブという場が出来たものだから、その理想追求に次第にのめり込んでいったのである。だから何の資格も得ることがない教育実習を、東京まで行ってみずから進んでしたようなものである。しかも、それとは知らない父に高い授業料を払ってもらいながら。だから私も行き当たりばったりの大山師である。

  5 岡潔思想研究会の発足

 高知へ帰ると、当時は昭和元禄の時代であり、アメリカ流の文化が花盛りでもあり、私の若さも手伝って、今から思えば随分人に迷惑もかけ遠回りの人生を送ったものである。何とか農協にはいり結婚もし、人並みの人生を送ろうとした矢先、女房の体調が急激に崩れたのをきっかけに、全ての歯車がかみ合わなくなり、両家の不信感もつのり離婚する以外の道はなくなってしまったのである。あれが私の人生では最悪の泥沼であった。

 その後、私は長い悲しみの中にあったように思う。いつの間にか酒を飲むと「泣き上戸」になっていたから。しかし、深い悲しみや苦しみを経験するとそれだけ心が深くなると岡先生がいわれたように、それをきっかけにして再び私は「岡潔」を読み始めたのである。そして「真我への目覚め」になぜか引きつけられ毎晩毎晩仕事から帰ると「これがやっぱり正しいがな―!」と何度もつぶやきながら熟読したものである。

 そうしたある夜、突然目がさめ「よし、岡家へ行こう!」と思ったのである。そして直ぐに奈良を訪ね、岡先生亡きあと長男の煕哉(ひろや)さんとお会いして、岡潔が全く世の中から忘れ去られていることを知ったのである。そこが私の人生の最大の分岐点であって、そこから岡潔の本格的な研究に入っていったのである。それまで平凡な私が、まさかそんなことになろうとは思ってもみなかったのである。それが1988年、私が38歳、岡先生没後丁度10年目であって、「私のいうことが今に日本人にも見え始めるだろう」と岡先生が予言した年でもあったのである。

 その後、岡家に頻繁に通うようになったのであるが、すぐに隣に住む次女のさおりさんを煕哉さんに紹介され、資料のためにさおりさんのお宅にお邪魔するようになったのである。さおりさんは生前の岡先生の信頼が厚かった人で、岡潔の資料の拠点の一つでもあったのである。最初のうちはさおりさんのお宅で毎年春に行われる、岡先生を偲ぶ「春雨忌」に出席し、全国から集まる弟子の方々と交流し、資料も次第に集まっていったのである。その中でも最初は埼玉の小石沢源秋さん、次に北九州の長谷川幸雄さん、そして最後に奈良生駒に在住でおなじ高知県(宿毛)出身の松澤信夫さんと親密になって行ったのである。

 奈良に通いはじめてから4年間は、高知市農協に勤めながら晩年の新たな資料を読んでいったのであるが、丁度その頃はソ連崩壊、バブル崩壊の世の中が混沌としていた時期であったので、ここまで来れば世の中も岡潔がわかる筈だとの思いから、意を決して農協を辞め「岡潔思想研究会」を旗上げしたのである。丁度、大学の後輩の山崎澄夫君が時々しか使わない借り家を朝倉に持っていたので、そこに無理やり入り込み300万の退職金を頼りに研究生活をはじめたのである。「寄らば大樹の陰」が口癖の父、そして息子思いの母はショックであったに違いない。また再び3日寝込んだのかもしれない。この借り家には1999年までの7年間いたのであって、高知大学の西の桑尾という広い庭のあるお屋敷の離れであった。この頃の句は、

  我が庵(いほ)は夏はとんぼの通り道

  白梅(しらうめ)や風は乱れて雪と花

 研究会をはじめて先ずしたことは、岡家からもらい受けてきた20本ほどの録音テープを書き起こししたことである。今ある「岡潔講演録1969」である。これが非常に為になり私の研究の基礎になった。その一方で、岡先生から頂いた「実践」という言葉を行動に移しはじめたのである。

 高知は日曜市が有名だが、そこへ潜りこんで出店をだし私が書き起こした岡潔の講演録を配ったのである。ほとんど反応はないのだが、毎週毎週その場所に座ったのである。そうしたある日、奈良から来た観光客の男性が声をかけてきたので冊子を渡したのであるが、2,3日もすると私の噂が岡家に届いたようで、さおりさんから思わぬ言葉を頂いたのである。それは「あんまり父を安売りしないでください」であった。それには私もカチンときた。その後、私は他の理由もあり、生駒の松澤先生と同じく次第にさおりさんから遠ざかるようになって行ったのである。

  6 大野長一先生

 もう一つ重要なことは、研究会をはじめた矢先に出会った教育者で土佐の良寛、大野長一先生である。私は先生のカバン持ちを3年半させてもらったのであるが、このご縁も過去世の再現という気がする。農協を辞めて直ぐのある日友人とレストランへ行き、そこで新聞を何気なくバッと開くと、「子供を拝む」という著書を出版したという大野先生の顔が目に飛び込んできたのである。翌日、早速会いに行ったのであるが意気投合して、丁度農協も辞めて自由の身であったし、先生のカバン持ちをさせてもらう幸運に恵まれたのである。こんなタイミングは先ずあるものではない。天の配剤としかいいようがない。

 そして大野先生亡きあとは、残された先生の絵の数々に感動し県内を探し歩き、手にはいった30点をもとに、2020年前後に県内各地で「大野長一絵画展」を催したのであった。この絵はいずれは西洋の真似ではなく、日本独自の油絵の草分けになるに違いない。県内にはまだ1千点は埋もれていると思うから、心ある人はそれを探し出してもらいたい。そうすると岡先生がいう「無量の情緒の一つの円融無碍な世界」が出現する筈である。

  7 破れかぶれの実践

 その後、流石に7年も収入がないと生活に困るようになり、再び家に帰ったのであるが、その頃父は高知銀行に勤めていたから、私も高知銀行の守衛として働くようになったのである。その年がノストラダムスの予言で、人類の滅亡がささやかれた1999年である。世紀が変わるとその頃から「情緒の教育」を皮切りに岡先生の復刻版が次々と出版されはじめたので、私のしたことは本が出る度に全国の教育機関に宣伝用のダイレクト・メールを出したことである。

 守衛の仕事はわりと暇であるから、宛名書きは職場でできたし、一度に5千通ぐらいは出したのである。その資金は母に出してもらったこともあったし、給料の半分はそれにつぎ込んだのである。多分私は生涯で、安いマンションを買える位の金額は岡潔につぎ込んでいると思う。それと同時に、銀行は全ての全国紙を取っていたから毎日それらに目を通し、これぞと思う人がおれば連絡をとり、主に東海道を中心に会いに行き、岡潔について熱く語り合ったのである。

 そこで思い出深いことを一つ挙げると、私は「情と日本人」の手書き冊子を高知で配っていたのだが、何とかもっと広く知ってもらいたいと、その新聞で見つけた東京で行われる司馬遼太郎と三島由紀夫の二つの追悼集会に、わざわざ旅費をはたいて冊子を持参し会場で配ったことがある。司馬さんの会では完全に無駄足だったが、三島さんの会では反応があり、評論家の宮崎正弘さんや藤井厳喜さんと知り合ったのはその時である。私はその頃から、がむしゃらに「出来ることは何でもやる」という方針であった。

 2005年8月であるが、松澤さんを筆頭に生駒勉強会の皆さんが来高したことがある。市内観光の翌日、四万十川の支流にある一の又温泉に泊まる。ここで松澤さんと温泉に浸かりながら、久しぶりに心境を語りあう。そこで私は「岡潔の第十識、真情を世に広めるために、この一生を使いたい」と初めて宣言する。松澤さんも頷いて聞いていたが、その宣言が最近になってやっと現実味をおびて来たような気がする。2012年には私のホームページができ、それに「情と日本人」を発表したのをきっかけに、2022年には新冊子「情と日本人」が2万冊出るなど、少しは岡潔の名が広まった気がするのである。

  8 父と母の思い出

 私は昨年(2024年)、母、鶴子を95歳で亡くしたのである。父が亡くなって15年、私と母は夫婦のように暮らしてきたのであるから、流石に体にこたえた。近年の年がいってからの母だけではない、私が幼い頃からの母の記憶が走馬灯のように蘇る。そうすると私も長く生きてきたものだなあとつくづく思う。何故こんなに母が懐かしく有難いか。それが母の「情」である。その「情」を通して母を見るから、こんなにも懐かしく有難いのである。一人一人に母親がいて、その母親が違った個性を持っていながら、それぞれの母親が懐かしいのであるから、母親の個性ではなくその背後にある「情」が普遍的に懐かしいのである。個性だけなら、それ程のことはない筈。「情」とはそれほど人と人とをつなげ、人の心の根底を支えているものなのである。

 しかし、私もやっと最近ふっ切れた。大野先生の講演「子供を拝む」にある教え子の歌に再び目が止まったからである。それは、

 母の顔思い出せない悲しさに 

 亡き母様の名のみぞ書く

 こういう子供は、今でもいるに違いない。いや、以前よりもむしろ多いかも知れない。この歌に比べると、私の淋しさなど比ではない。私には母の思い出は山ほどある。母親の記憶がない、これほど淋しいことはない。私など逆に贅沢であったと、気がついたのである。

 人類の涙々を拭いたい 賢二

 なお、母が亡くなったのは2024年の春であるが、その日時は4月26日午前4時15分、私が母のお腹をかりてこの世に生まれ出た正にその日、その時間であったのである。これは一体何を意味するのか。母は岡潔という人類の大先覚者を世に広める横山賢二という一人の人間を、私は産むために生まれて来たと言いたかったのではないか。その意味で私はこれからも、ますまこの活動に手を抜くことは許されない。

 また、2011年3月には東日本大震災が起こる。父が亡くなったのは6月28日である。その葬儀の日に、東京で何回も会って意気投合した日新報道の遠藤留治社長から、密かにかけあっていた「日本民族の危機」の出版確定の連絡がはいる。父もまた、あの世へ行って初めて、息子の活動の意味がわかったと、サインを送ってくれたものと思っている。

  9 松澤信夫先生

 父が亡くなった頃から大阪と和歌山橋本の講演の話がはいり、後にその講演をみずから書き起こし、だんだん手書きの原稿を書く機会が増えてくる。2012年7月にはホームページに「情と日本人」を初めて掲載する。このホームページは会員の黒岩祐喜君の言葉にヒントを得てのことであるが、その運営は運命的に出会った今は事務局の吉井浩一君にしてもらった。私の手書きの原稿は、吉井君のお母さん吉井千恵子さんが長期療養の病院のベットの上で活字にしてくれたものである。その他、千恵子さんは松澤先生の「青年学生光明会」の原稿もおおむね活字にしてくれたのであって、その功績は非常に大きい。こうして岡潔を支えているのは、日本人の中の青人草、つまり一般の名もない庶民なのである。

 松澤信夫先生は、50年をかけて岡潔先生の膨大な録音テープをサラリーマンをしながら全てを文字化し、全集本であれば30巻にもなる資料を一人で編纂された驚異的な方である。私のホームページが立ち上がる前の2010年頃から高知の勉強会に毎月おいで下さるようになり、我が家で一泊か二泊はされ、夜は必ず夜遅くまで横山と吉井を相手に飲み会であった。それはコロナ流行が始まった2020年までの約10年間続いたのであって、合計すると来高は100回を優に越す。

 初めの頃は、勉強会は地元朝倉の妹の居酒屋「楽市楽座」で開かれて、5人から10人の参加者があったが、2017年の秋に「楽市楽座」が店を畳んだことで、我が家の研究室に場所が移り、結局4、5名の参加者に固定してしまった。松澤信夫、山本八満夫、廣田正邦、吉井浩一、横山賢二の5名である。夏合宿も毎年行われ、2016年の13名参加が一番多かったが、それ以外の県外からの参加者は毎年一人来るか来ないかであった。

 特筆したいのは、会員の山本八満夫(やまお)氏である。彼は婦人服のヤマキン商店の店主で、私は年下ながら「ヤマキン」と呼んでいたのだが、残念ながら一昨年亡くなった。全国に「ヤマキン通信」なる保守系のニュースや話題を毎月100部ほど出していたのだが、岡潔の資料を毎回それに挟んで広めてくれたことは大変ありがたかった。高知での唯一の功労者である。商売よりも広める方に熱心で、よく奥さんが嘆いていたのを思い出す。

 その他、時には四国山脈の大豊の山の上にあるロッジ「にやだ」で泊りがけの勉強会をすることも楽しみの一つであった。そこは四国山脈を一望でき囲炉裏もあり、ゆっくりと岡潔を語るには最適の場所であった。山の上の藁焼き「タタキ」の味はまた格別であった。

 コロナ禍が始まったのは2020年初頭であるが、松澤先生はその頃から高知へは来られなくなった。コロナ感染も心配であるし、お年もいかれたからである。その代わり高知から奈良へ出向くことにしたのであるが、昨年(2024年)松澤先生と紀見峠で一度合宿しただけで、なかなか思うようには行けてないのが現状である。つまり、コロナ禍からこの研究会の活動も少し変わって来たのである。

  10 最近の活動

 冊子「情と日本人」であるが、北海道の宮下周平さんが資金を出してくれて、「情と日本人」が私の手書きのコピーから20年の歳月を経て、写真入りの本格的な冊子に生まれ変わったのである。これを全国に配ろうということになり、岡家の手前から無料で配りはじめたのである。それが2022年5月であるが、全国の有志の方々が一人一人に手渡すという形で配りはじめ、1年の間に何と2万冊を越えたのである。これはちょっとした出版と同じである。

 私のホームページが2012年からはじまり、岡潔の名前がある程度知られていた上に、この「情と日本人」が世に出たわけだから、これは良い宣伝となったように思う。しかも、ただばら撒いたのではなく、ご縁を通じて心ある方々に行き渡ったわけだからその拡散密度は高い。これによって全国の有志のネットワークも大分しっかりと大きくなったように思うのである。

 そういうこともあって、その少し前から重要な文献をセットにして全国の有志100名程に、私のコピー機をフル回転して配るのを常としたのである。そのコピー機はいま3代目である。それを振り返ってみれば、2019年には私の思い入れのある手書きの「岡潔講演録1969年」を皮切りに、2021年には「岡潔先生と語る」、2022年には新冊子「情と日本人」と「岡先生代表作」、2024年には「岡潔先生、新聞雑誌」などがある。

 私は岡先生とは丁度50年の歳の開きがあるのだが、それらを配った私の歳と岡先生の実際に話された歳が大体合っているのである。つまり、不思議なもので岡先生の話は、丁度50年遅れで今の世の中に初めて知られる結果になっているのである。これを見ても、私と岡先生とは因縁浅からずということで、客観的に見て、私はやはり岡潔を世に広める為に生まれて来たのである。

 最後になるが、遂にこの度、松澤信夫著「春雨随聞記」が15年の歳月をへて完成した。2010年ころから松澤先生は高知の岡潔勉強会に毎月奈良から足を運んで下さるようになり、そこで時折テーマを決め岡先生の知られざる晩年を語ってもらったのである。そのテープを松澤先生が細部もしっかり確認したうえ書き起こし、その分厚い原稿を私が1年かけて活字にしたのである。それが本として完成したのが2025年11月である。

 それと併せて、私のホームページ「岡潔講演録解説」もこの3月にアマゾンから出版されたのであるから、この2025年に長年の悲願であった岡潔先生の知られざる晩年の中期と後期が出揃ったわけで、これで空前絶後の我々の最終目的も達成されたといっていいだろう。

  11 生涯の反省

 これで大体、私の生涯の概略は記してきたのであるが、最後にそれを振り返ってみれば、反省することばかりが私には目につく。あまりにも常識外れの勝手気ままな人生だったと思うのである。二年浪人し、父親の仕送りで大学は3年間テニスに使い、そのあげく中退したのだから、それでたっぷりと勝手きままである。その後、離婚。運命的に仕方なかったとはいえ、両親は辛かっただろう。それが済むと今度は農協を退職し、両親には何のことかわからない研究会を始め、後輩の借り家に7年間も居候である。

 これは弁解の余地のない「勝手きまま」である。しかし逆に、そこからが私の人生の本番であったと思うのである。「岡潔思想研究会」を立ち上げることが、私の人生の生まれる前からの目標であったのである。外から見れば「勝手気まま」の最たるものだが、内から見れば外見や世間体など一切関係なく「内心の声に如何に忠実か」が私の人生の一本道ではなかったかと思うのである。破れかぶれのくそ焼け道である。

 岡がいうように、人には心が2つある。第一の心は意識を通すし、世間の常識が通用する。しかし、第二の心は意識を通さないし、常識は通用しない。だから普段は自分にも自覚はないのだが、いざ決断となった時は躊躇がない。常識もぶち破るのである。この生き方が本当の人生だと、私は思う。私は人生の節目節目ですべて、このやり方しかできなかったのである。しかしまた、ここまでならばいわば私の「自己満足」でしかない。

 人類の現状を見て欲しい。現状を見て安閑としていられるかどうか。その認識がなければ、のれんに腕押しぬかに釘、どう仕様もない。私がこの岡潔思想研究会を立ち上げたのは1992年であるが、その頃はソ連が崩壊、バブルが崩壊の時であった。ここまで来れば、岡潔をわかってくれるだろうと思ったのであるが、あれから既に30年、その結果はどうだろう。私は最高の「自己満足」で済むかもしれないが、これからの世界は一体どうなることだろう。皆さんにもよくよく考えて頂きたいのである。

 ハンチントンが「文明の衝突」の中で、日本は一国一文明の世界で唯一の文明であると日本の特異性を説いたのであるが、一方で、縄文以来その事実に気づかずに、外国の文明にかぶれて人真似しかしてこなかった日本人が、自らの心の世界の高さ第10識「真情」を再認識し、その自覚と誇りをもとに今までにない「こころの文明」を建設し、それを地球上に広めることがこれからの日本の行く道だと私は確信しているのである。

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