横山講演録(9) 岡潔先生との対面
2024年12月20日
数学者 岡潔思想研究会 横山 賢二
於 奈良高畑町 岡家 1973年晩春初夏の候
長い間、このことを文字にしておこうと思っていたのだが、やっとその気になり、ここに記しておこう。
私が大学を中退して高知へ帰るとき、「よし、岡潔に会っていこう!」と思い立ち、奈良を訪ねたのは確か私が23歳のときでした。これは東京でお世話になった大学教授の村井譲二先生が「誰か立派な人があれば是非会いに行きたまえ」と常々いっておられたことに起因する。私が岡潔に会うきっかけを与えてくれたのだから、村井先生もやはり日本民族の一人ではなかっただろうか。私が大学を中退して高知へ帰るとき、「よし、岡潔に会っていこう!」と思い立ち、奈良を訪ねたのは確か私が23歳のときでした。これは東京でお世話になった大学教授の村井譲二先生が「誰か立派な人があれば是非会いに行きたまえ」と常々いっておられたことに起因する。私が岡潔に会うきっかけを与えてくれたのだから、村井先生もやはり日本民族の一人ではなかっただろうか。
奈良公園の近くの岡家の前に着いて、入るか入るまいか大分逡巡したのだが、意を決して戸をたたくと奥さんのみちさんが出てこられて、丁度岡先生も在宅中でしたので取り次いでくれました。
客間に通されまして、奥さんに勧められるようにお床を背にして私が座っていると、隣の部屋から岡先生が出て来られました。着物を着て私の前に座られましたが、よく見ると片方の眼に今まで見たこともないような大きな眼垢をつけているではありませんか。この先生は何日か顔を洗ってない。いや何日も寝ていないのではないかという直観が私には働きました。これはやはり只者ではない、という証拠を眼前に突きつけられたわけです。
それで私が自己紹介で、「高知から来ました横山という者ですが、何年か前に岡先生が高知へ来られ講演されましたが、私はそれを拝聴しました。しかし、聴衆の反応が鈍いと察せられた岡先生は突然「これがわからんか!」と怒鳴られました」と申し上げると、岡先生は「お前だけはわかってくれたか」といわんばかりに一言「そうか」といわれました。その言い方がいかにも身内にいうような言い方で、他人行儀に「ああ、そうですか」などとはいわれなかった。わたしはこのことで岡潔の弟子の一人になれたかと、一人勝手に嬉しかったのです。
次に、私が先生に質問をして、「先生、人生とはなんでしょうか?」と申し上げると、間髪を入れずに「実践である!」と叫ばれたのです。その声は室内に轟くほどの大きなもので、私もビックリしましたが、今から考えると私が何を質問しても全てこの答えが返ってきたのではないかと想像します。私はその後の人生を振り返ってみますと、意識してではありませんが、この言葉ひとつに動かされて人生を歩んで来たのではないかとさえ思えるのです。
更に私が「折角ここまで来たのだから、何かサインをして下さい」と申し上げると、先生はやおら眼をつむり瞑想状態に入られました。そうすると先生のからだが次第に右へ左へと揺れはじめたのです。私は思わず眼の前の先生のからだを支えようかと、手を差し伸べたほどでした。
私は感動しました、これが世界最高の精神統一かと。先生のからだは私の眼前にあるが、先生の心は確実に別次元に行っているのである。その事実を私の眼前にまざまざと見せてくれたのです。これ一つだけでも岡潔と対面した甲斐はあったというものです。
そして、岡先生が万年床にいつも立て肘をついてものを考えることの理由もこれではっきりした訳です。人に実際に対面してみなければ、こういうことは経験できないのです。そうして先生は眼を開けられ、私が持参した本の裏表紙にこう書いてくれたのです。
山暮るる 野は冬枯れの 涯(はて)もなく 岡潔
その書くところを見ていますと、その一文字一文字にまったく作意がなく自然で、しかも何ともいえぬ調和感があるのに驚きました。そして最後に書いてくれた岡潔のサインですが、潔という文字は山水偏から始まるのですが、その山水の最後の偏を遥か下からズルズルズルと持ちあげてきたのにはビックリしました。誠に情緒豊かな文字でした。
ただ、この句は私には少し淋しい句だなとの思いがありましたし、涯という字をどう読むのかわかりませんでしたが、対面して50年後に私がホームページに岡潔解説を書きはじめた矢先に、その対句といえるものが知人から送られてきました。それには、
冬枯れの 野に萌え出でよ 若緑 岡潔
とありまして、やっと腑に落ちる解答が得られたかと思った次第です。
私と岡先生が対面した時間は20分程の短いものではなかったかと思います。しかし、若者が訪ねて来れば、口角泡をとばして持論を語る岡先生ですが、私の場合にはそんな様子はなく、なにか私が圧力を感じるほど私をジーッと観察するような気配でした。岡先生がどこかへ書いていましたが、誰か初対面の客があると、私は造化に打診する。そうすると、造化はその人の過去と未来を教えてくれる、とありました。私も多分、その俎上の上に載っていたことだろうと思います。
しかし、本当に岡先生には珍しく、ご自分からは一言もしゃべろうとはしなかったのは事実です。これを無言説法というのでしょうか。そしてその20分程の間に、私は生涯忘れえぬ幾多の教えを受けたのもまた事実です。そして私はただ「そうか」という言葉と「実践である!」という言葉二つを胸に抱いて、晩春初夏の候の奈良の岡家に別れを告げたのでした。そして、私が再び奈良を訪れたのは先生没後10年目、「いずれ日本人にも見え始めるだろう」と先生が予言した1988年春のことでした。
それから、その岡先生没後10年目に私がなぜ岡家に行くことになったかということですが、私は岡先生と対面したあと、岡先生の本は読み続けていましたが、人生の道草を随分重ねながら人生を歩んでいました。しかし、岡先生が予言した1988年(私はその頃その事実は知りませんでした)が近づくと、不思議に岡先生に引きつけられ、毎晩仕事から帰ると以前から愛読していた「真我への目覚め」を繰り返し繰り返し「やっぱり、これが正しいがな-!」と何度もつぶやきながら熟読したものです。そうしたある夜突然目がさめ「よし、岡家へ行こう!」と思い立ち、すぐに奈良を訪ねました。そうして、岡家で長男の煕哉(ひろや)さんとお会いし「今では父、岡潔はまったく忘れ去られた存在だ」といわれたのをきっかけで、岡潔思想研究会を始めることになったのです。
その奈良を訪問し岡家にたどり着いたときのことですが、その当時岡家の周りに家はなく、田んぼの中の一軒家でした。家の前には小さな水路があり春の水が流れていました。ドボドボと音を立てながら流れていたのですが、その音が私の耳になにげなく入ってきました。そうするとその音は「よく来た、よく来た、よく来た、よく来た」といっているではありませんか。私は「ええ!」と思いまして、そんな筈はないと何度も聞き直しましたが、やっぱり「よく来た、よく来た」としかいっていないのです。これはやはり私は岡先生に呼ばれたのか、天上の岡先生が私の内耳に囁いてくれたとしか思えないのです。ふと上を見ると二羽の山鳩が並んで電線に止まっていたのが印象的でした。これは岡先生と奥さんのみちさんが私を迎えてくれたのではなかったでしょうか。
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